木下川小学校が地域の中に東京市向島木下川尋常小学校として開校したのは、1937年4月のことです。その敷地は、以前大日本人造肥料株式会社(過リン酸石灰や骨粉を作っていた工場)があったところです。学級数21、児童数1026名で出発しました。
もう一度木下川小学校が創立する時代背景を見てみましょう。日中戦争から太平洋戦争へと戦争が激化するさなかです。1925年に再度の皮革業者に対して強制移転の動きがあり、1934年(昭和9年)に立ち退かなくて良いという一定の成果が見え始めた時期でありました。
木下川地域の皮革工場数は、1934年(昭和9年)の57社から3年後には91社に増えています。また、木下川地区のまわりの小学校(三吾嬬、五吾嬬、中川、更正小)は軒並み低学年が二部授業をしなくてはならない程の人口増大に至っていました。皮革産業を中心にして町が活性化していく時代であることがわかります。
こんな時代背景と皮革関連産業に向けられた社会状況の中で木下川小学校が創立されていきました。
地域では協賛会が作られ、わずか3ヶ月で9484円90銭が集められていきました。協賛会長は、吾嬬奉明会会長の松山主計氏です。この資金で国旗掲揚塔、二宮尊徳銅像を始め電話、ピアノ撮影機、輪転機、校服等購入し、地域では東洋一、墨田区一の設備が整った学校ができたと喜び、三日三晩お祝いが続いたと伝えられています。
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