食肉の授業に取り組んだ10年間
墨田区立小学校 現役教員
「食肉の授業」に取り組んだ十年間
教員となって十年が過ぎた。振り返ってみると、それは「食肉の授業」に取り組んだ十年間であった。教員一年目で「食肉の授業」に取り組んだ。それから数年、学年に関係なく僕が担任したクラスでは必ず「食肉の授業」を行った。ここ数年は学校組織での取り組みとして定着させることができた。僕が担任しているクラスでなくても、毎年五年生で「食肉の授業」を行うようになっている。そして、この十年間、この取り組みを品川支部の方々がずっと支え続けてくれた。現在の形になるまでの道のりは決して平坦なものではなかったが、品川支部の支えがあったからこそ、実践してくることができたし、学校の中に定着させることもできた。この十年間を簡単に振り返ってみたい。
青年海外協力隊での 経験
二〇〇三年、僕は勤めていた企業を辞し、青年海外協力隊に参加した。赴任したのはタイの東北地方の農村。電気も水道もままならない、タイで「最も貧しい」と言われる地域である。そこで活動を始めてまだ間もない頃、僕は大きな衝撃を受けた。自分自身の矛盾を突き付けられたのだ。
その村は都市から離れていることもあり、自給自足に近い生活が行われていた。野菜は家の裏で育てる。鶏は飼育して、食べるときに絞める。この「鶏を絞める」ことが、大問題だった。鶏肉は大好きである。だが、自分の手で鶏を絞めることができない。日本の学校教育や社会通念の中で培ってきた、「命を大切にしなければいけない」という価値が邪魔をする。鶏を絞めることは、残酷なことに思えた。僕にとっての「命を大切にする」とは、単に「生き物の命を奪わない」という程度の、軽薄なものだった。
赴任してからしばらくの間、鶏を食べるときはタイ人の友達に締めてもらっていた。その友達は僕のことを不思議に思ったようで、「日本では鶏肉は食べないのか?」と聞いてきた。「食べるけれども、自分で絞めることはないんだ。」と説明したが、「食べるのに、何で絞めることができないんだ?」という質問攻めに合い、とうとう彼を納得させることはできなかった。矛盾しているのは、明らかに僕の方だった。
牛の解体は、もっと衝撃であった。1ヶ月に一回くらい、僕の家の目の前で牛の解体が行われる。それを見るのが嫌で、家の中に隠れていた。そのくせ、解体が終わるころに出ていって、食べる分の肉はちゃっかりもらった。
僕はこのときほど、自分の持っている価値観の矛盾を感じたことはない。肉を食べるくせに、生き物が肉になる過程から目をそらす。目をそらすどころか、それが何か「残酷なこと」のように否定的に考える。その「残酷なこと」をする人は、自分とは違う種類の人間だと考える。そして、薄っぺらい「命を大切にする」という価値観を守りながら、安心して肉を食べる。
村で生活する中で、やがて自分の手で鶏を絞めるようになった。牛の解体にも立ち会うようになった。「肉を食べる」ことの全貌を知ることで、「命を大切にする」という意味も変わってきた。そして、このことを日本の人たちに伝えたいとも思った。僕と同じように矛盾している、日本の人たちへ。これが、帰国後に教職を志す一つの動機となった。
日本の学校教育
青年海外協力隊からの帰国後、また数年間は民間企業に勤めた。そして二〇〇九年四月、東京都の小学校教員となった。僕がタイで出会った矛盾は何だったのか?そのことは常に頭の片隅にあった。生まれてからの二十数年間、おそらく毎日のように肉を口にしてきたはずである。この、生きることと直結している、肉を食べることについて、何故正しく理解していなかったのだろう?「命を頂く」ことが、何故見えにくくなっているのだろう?何故、日本の学校教育の中でもきちんと教えないのだろう?
このような疑問をもちながら赴任した墨田区の小学校で、僕は同和教育と出会った。そして、周りの人々に支えられながら「食肉の授業」をスタートした。
現行の社会科の学習
現在の小学校の社会科では、五年生で様々な産業について学習する。「食糧生産を支える人々」という学習では、農業や水産業、畜産業について学習する。現在墨田区で使用している教科書では、農業については約三〇ページ、水産業については約二一ページの紙面を使っている。だが、畜産業については一ページ、肉牛の飼育について触れているだけである。これが現状である。学校教育の中で、農業や水産業と同じように、畜産業についてもしっかりと学習する必要がある。「肉が我々の口に入るまでにどのような過程を経てきているのか」という事実を、子どもたちが正しく知ることが、大切なのだ。
教員一年目「肉を食べること」の授業を行なう
教員となって一年目、墨田区の小学校に赴任した。そして、同和教育と出会った。同和教育に熱心に取り組む先輩たちとの出会い。苦しい現実を生き抜く子どもたちとの出会い。この出会いは僕の教員人生を方向付ける、決定的なものだった。そのような環境の中で、「肉を食べること」についての授業をした。部落差別について、ほとんど何も知らなかった僕も、一つ一つ知っていく機会となった。
皮革の町、木下川の学習から始める
墨田区には木下川という、皮革産業の盛んな町がある。「肉を食べること」の授業もこの皮革を切り口として始めた。そして、私たちの生活の中には、食品や、皮革など、とても多くの動物(命)に由来するものがあることを確認し、実感していった。
次に、そのような食品や製品となる牛や豚などが、どこでどのように生まれ、育つのか、ということを調べていった。身の回りにある多くの物が、命に由来することは、子どもたちは知識として知っていた。また、家畜農家のことも、子どもたちは分かっていた。しかし、それらのことを詳しく再確認していく中で、子どもたちは「自分たちが何を知らないか」に気がついていった。それは、命ある動物が、製品となるその間の過程である。いつ、どこで、誰が、命ある動物を製品や材料にするのか。
品川支部との連携
授業の最大の山場として、品川の食肉市場で勤務するTさんに教室に来ていただこうと考えていた。その前にクラスの中で、どのような人が、どのような場所で「と畜」という工程を行なっているのかを想像し、話し合った。そこで出された考えには、「残酷な人」「恐い人」「悪い人」「犯罪者」「中国人」といった、とても差別的なものも多くあった。また、「人間はそのようなことはしない。きっとロボットがやっているに違いない。」という意見もあった。また、場所については、「暗い部屋」とか「汚いところ」という、やはり偏見に満ちた考えが多くあった。このような子どもたちの反応に僕には強い思いが湧いてきた。事実を正しく伝えなければならないと。
授業当日、具体的にわかりやすくと畜について説明してくれるTさんの話を、子どもたちは身を乗り出すようにして聞いていた。話の途中で一人の子どもが、「ふつうのおじさんだね。」と言った。Tさんは「当たり前だ。よかったら、手を触ってみるか?」と言った。すると、学年全員の子が立ち上がって、順番にTさんの手を嬉しそうに触るという場面があった。Tさんが「触ってみてどうだった?」と聞くと、「温かかった。」とか「タバコの臭いがした。」という答えが返ってきた。文字通り触れ合うことができたこのことは、とても重要な意味があったと思う。子どもたちは、Tさんが自分たちの周りにいる大人たちと何一つ変わらないことを、身をもって感じることができた。そして、間違っていたのは自分たちの中にあったイメージであり、Tさんに出会う前に胸の中にあった、偏見や差別的な見方を、払拭することができたように思う。
その後の社会科見学では、品川の食肉市場にある「お肉の情報館」に行った。ここでも、子どもたちの心の中にあった「暗い部屋」や「汚いところ」といった偏見に満ちた考えを、改めることができた。そして、子どもたちはここでのTさんとの再会を、大喜びしていた。
統合新校、
二〇一一年、僕が所属していたA小学校とB小学校が統合し、「新」小学校としてスタートした。「新」小学校の第一回目の人権の研究授業は僕が行った。担任していたのは三年生で「食肉」を扱った。ただ、校内からは様々な声が聞こえてきた。「何でそんなことをするのか?」「そんなこと、生きていくうえで知らなくてもいいのではないか?」「子どもたちが肉を食べることができなくなったら、どう責任をとるのか?」同和教育の土壌があったA小学校とは違い、B小学校で「食肉の授業」を実践するためには、乗り越えて行かなければならない多くの障壁があった。
授業の計画は保護者にも通知し、「食肉の授業」は保護者がいつでも見に来ることができるように公開しながら進めた。ただ、大人たちが心配するよりも子どもたちはずっと柔軟で理解力が高い。事実を事実として伝えれば、先入観や偏見に固執することなくスッと受け入れることができる。授業を進めていっても、過剰反応した大人たちが心配するようなことは起きることはなかった。
このように、統合一年目から「新」小学校でも品川支部と連携して「食肉の授業」を実践することができたことは、その先に繋がる大きな一歩となった。
学校組織の取組として「食肉の授業」を定着させる
「食肉の授業」は二〇一三年頃まではあくまで僕個人での取組として捉えられてしまうことが多かった。その中で、徐々に周囲の教員や管理職の理解を得られるようになり、二〇一四年からは学校組織として取り組むことができるようになっていった。
人権課題「同和問題」についての学習も、各学年で学ぶ内容と連携させて、系統立てて位置付けた。墨田区の産業を学ぶ三年生では、「皮革産業」について。食糧生産を学ぶ五年生では、「食肉」について。歴史について学ぶ六年生では、「部落の歴史」について。一年生から六年生までの六年間で系統的・計画的に学ぶことができるように、構成を整えた。
このような状況の中で、全教員の意識を高め、「食肉の授業」に取り組んでいけるようになった大きなきっかけがあった。それは二〇一五年の夏休みに、校内研修として品川の食肉市場を見学したことである。この際も品川支部の方々には全面的に協力していただいた。実際に作業工程を見学し、そこで働く方々と出会うことが、教員の意識を大きく変えた。問題の本質がどこにあるかに気が付くことができたのだと思う。この年「新」小学校では、初めて僕ではない教員が中心となって「食肉の授業」を行った。これは「新」小学校にとって非常に大きな前進であった。
「皮革」と「食肉」の学びを土台として「水平社宣言」を読む
今年度、僕は六年生の担任をしている。そして社会科の歴史学習の中で「同和問題」について指導した。子どもたちは三年生で「皮革」について、五年生で「食肉」について学んできている。これらのことを学んでいることは「同和問題」の理解のために非常に重要なことである。
「水平社宣言」の原文を読む授業では、「ケモノの皮剥ぐ報酬として、生々しき人間の皮を剥ぎ取られ、ケモノの心臓を裂く代価として、暖かい人間の心臓を引き裂かれ・・・」というところを読んで、子ども達は「皮革産業と食肉解体のことだ」と気が付いていた。そして、水平社宣言を被差別の側に立って正しく理解するとともに、「同和問題」が現代なおも続く問題であることを実感することができた。
偏見や差別を解消するための教育を
偏見や差別の解消のために、教育の果たすべき役割は大きい。だが、現在の教育の枠組みの中にも、偏見や差別を土台にして築かれているものがある。それを見抜き、突破しなければならない。「食肉の授業」においても、現在の学校教育では不十分なのであれば、既存の枠を壊し、子どもたちに必要な学びを再構築する必要がある。偏見や差別の解消のために、今の子どもたちには何が必要かを常に考えながら、教育活動を進めていきたい。 (完)