スカイツリーが立つ街
〜子ども達は親の労働、仕事、町をどう見ていたか〜
1957年から2003年廃校まで続いた作文集「木下川の子ども」から
第42回同和教育研究集会(2019年)講演より
岩田 明夫
1. 1978年と1985年 二度開かれた全同教大会
私は10年ほど前まではこの東京都同和教育研究集会の裏方をやっていました。教員として墨田区は3校で働きましたが、皆廃校になってしまいました。荒川区では1校。私の勤務した学校はすべて人権尊重教育推進校です。東京の教員としては珍しいことだと思います。今は、「産業・教育資料室きねがわ」で年間3000人以上の見学者を受け入れ、主に子供たちに向かって話をしています。今日は、木下川小学校でかつて子供たちの書いた作文について話をしたいと思っています。
教員になってすぐ東京都同和教育研究協議会にも携わり、今の事務局長さんともずっと一緒にやってきました。毎年場所を変えながら研究集会を開き、夏は合宿などを続けていました。東京の各地の被差別地域を回って学んできました。それは東京では部落問題をほとんど見えなくさせられているので、それぞれの被差別地域に入ってその地で抱えている課題はどういったものがあるのだろうと追求してきた取り組みでもありました。泊まりがけのときには、地域で活動をしている人たちとも交流をし、それぞれの思いや課題にしていることや教育に求められていることなどを学ぼうとしてきました。
今日の集会で何を話そうかいろいろ考えてきました。この墨田の地域で抱えている課題とそして同和教育運動が大切にしていることを私なりに提起したいと思います。
この同和教育東京集会は1977年から始まり、1年も休むことなく続けられています。今年42回目、よく42年も続いたなと思います。
年配の方は懐かしいなぁと思うかもしれません。全国同和教育研究大会(全同教大会)が毎年開かれています。東京ではこれまでに2回開きました。その時のポスターと写真が出てきましたので、見ていただけたらと思います。これは1978年の30回大会の時です。「差別の現実に学び子供と共に歩む」と言うテーマで東京国際貿易センターを主会場として開かれました。私はこの時ホテルで缶詰になって報告練習をしていました。翌日は大田区の体育館で数千人と言う人たちが集まり特別分科会が開かれました。そこで報告しました。その時の丸木いり、俊さんの絵がポスターとして残っています。それから37回大会を1985年に東京で開いています。「部落差別の現実から深く学び、生活を高め未来を保障する教育を」と言う今につながるテーマです。このポスターは当時の木下川小学校の校庭、子供たちは私の教え子たちです。背景には皮革工場が写っています。工場の2階は風通しを良くして革を乾燥させる場所です。残念ながらこの建物は昨年取り壊されてしまいました。その大会の時の写真がありますので、見てみましょう。この大会は蔵前国技館で全体会をやりました。今国技館は両国にありますが、その前は蔵前でした。そして、両国に移った新国技館では相撲などのスポーツでなく文化的行事を催したのは、この全同教大会が初めてだったと思います。全国から1万5、6千人が集まった集会でした。午後からは30いくつも分科会がありまして、全ての会場に東京の教員は司会、運営者、道案内等を出し、今から考えると大変な準備の必要な大会でした。そういう時代からすでに40年近く経っているのには驚かされます。部落の置かれている現状はその時からもずいぶん違ってきている面もあります。それをどういう課題として捉えなければいけないのか、その方向性を考えたいと思います。
2. 今年の新聞、ニュースから
新聞を見ますと、今年は結構部落問題に関する記事が多かったと思います。5月の10連休の最後の日でしたが、朝日新聞の社会面に大きく取り上げられました。その一部を読ませていただきます。とてもわかりやすい文書でした。2016年に差別解消推進法が成立します。これは部落差別があり、許さないと言うことをはっきりさせた法律です。特に情報化の進展に伴って部落差別に変化が生じてきたことに対応した法律です。私たちを取り巻く状況が変わってきたと言うことです。部落差別を解消することを目的とした理念法としてでき、情報化の進展に伴って新しい差別事象が出てきたと言うことです。2007年に墨田地域の皮革工場の写真や学校の写真・地域がインターネット上に出ました。そこには写真の下に差別的なコメントと共に出されています。今年に入り、今度は墨田の地域を動画で写し、差別的に煽動するようになりました。こういう形でこの地域のことが差別に晒されていくということが起こっています。そういった差別的状況に対応してこの法律が出てきたといえます。
こうした状況に対応しての事だろうと思いますが、5月5日の朝日新聞の記事では、東京に暮らす私たちにとってはとても大切な視点を提供するものでした。これは東海地方の20代の女性が両親に結婚相手を紹介したことから始まります。自分の娘さんが結婚すると言うことを聞いてお父さんはとても喜んだと思います。その後娘さんのお父さんはインターネットを開いて相手の住所を調べます。相手の男性の住所がインターネットのサイトで被差別部落にあるということがわかりました。それを知り自分の娘が差別問題で今後辛い目に合うのではないかと父親は悩み、結婚に反対しました。娘さんは困って行政に相談してこのことが明るみに出ました。このケースって東京でも多いように感じます。自治体の調査でも、親が反対するならば結婚しないと言うケースが多いという調査結果もあります。記事にはいろいろな識者の話が出てきます。これまで話題にしなければ差別はなくなると言う人もいました。部落差別というのは、お年寄りが引き継いで語りつないでいく。だからお年寄りがいなくなれば自然となくなっていくと言う考えです。「寝た子を起こすな」と言う考えです。「寝た子を起こすな」と言う考えは間違いだと言う事は東京都の行政でもはっきり打ち出しています。しかし様々な現場の空気は違っているように思われます。学校現場ではよく言われました。部落問題は難しいのだよ。小学生には理解することは無理だと。それではいつになったら大丈夫なの?大学生ならいいの?しかしそれはおかしいですね。小中高の育ちの中で何も教えられないで成長し、大人になって初めて学ぶこととはどんなことなのでしょう。それぞれが社会の差別情報に触れながら勝手な部落に対するイメージを作ってしまっています。小さい頃から差別について理解しない議論しないことが差別を助長してしまうと言うことです。全く教えられていないと言うことにびっくりさせられます。
皆さんもご存知だと思いますが、先日の参議院選挙を前にして、ある政党の候補者が部落差別発言をしました。彼は部落が犯罪者の集団だと言っているのです。彼は奈良県の出身だそうです。奈良県と言えば水平社運動発祥の地です。これまでも同和教育を全県的に取り組んでいた先進的地域です。なんでそのような地域からこのような発言をする人が出てくるのだろうと不思議に思いました。関東や東京の子供たちは学びがない中で部落に対していろいろなマイナスイメージを勝手に作り出していきます。これは大人たちも同じです。主に学校教育が中心ですが、結果的になるべく知らせないようにしてきました。マイナスの事として語らない、学ばないようにしているのです。この間東京都教育委員会の方針として部落問題をどのように学んでいくか、とてもわかりやすく書かれています。水平社宣言や水平社の取り組みから入っていくことも必要だと述べています。そしてと畜や、皮革に関連させて学んでいきましょうとなっています。ここから入って勉強していきましょうとなっていますが、これは結構部落問題学習の入門内容としては的確だといえます。授業でこんな組み立てをやってみたらどうだろうかと、これから授業実践の検証の時代に入っていくことを期待しています。
3. 「資料室きねがわ」の今
今では特養老人ホームになっていますが、木下川小学校が廃校になったのは2003年です。戦前、区内で最も遅くできた学校が、戦後最も早く潰れていきました。その廃校になった校舎の1階に「産業・教育資料室きねがわ」を立ち上げたのが2004年。もう、15年になります。今は隣の東墨田会館に移転しています。その2階で昔の皮革生産の道具、今作られる革や油脂などを見せ、子供たちに地域の産業と私達の生活とのつながりについて教えています。子供たちと言っても小、中、高、大学生です。その外に企業や行政職員など大人達も学びにきています。この3年間を見ても見学に来る数は非常に増えています。教育関係者も増えています。墨田区で言うと、小学校は半分以上の学校が来ています。多い年で、3分の2の小学校の児童・生徒がここで2時間かけて学んでいきます。小学生は3年生が中心です。例えばこんな感想も聞かれます。
小学生感想(3年生)「皮がどうぶつからできているなんてしりませんでした。」という感想です。動物といっても牛や馬や豚などで家畜の革を実際に見せます。木下川は特に豚革の生産が日本一です。20年、30年前までは全国の生産量の70%と言われていましたが、今では80から90%近くになります。以前は月に70万枚80万枚鞣されていたようですが、今では少なく4,5万枚くらいでしょうか。鞣す前の原皮のまま80%近くが東南アジア諸国へ輸出されるようになりました。そういう意味では町が大きく変わってきています。最盛期100社近くあった皮工場が、今では十数社になっています。それでも豚革なめしは、日本一の場所です。興味深いのが、毎年目黒区の高校生が3,40人、人権学習の導入としてここにきます。部落問題学習を6回するそうです。高校2年生が事前指導で何も教えられずここに来ることから出発します。部落問題を含む人権に関するゼミを1年間通して、最後の時間にまとめの討論会をします。その時真剣に先輩たちが討論しているのを1年生が見ていくようです。下級生は先輩たちが人権問題で真剣に話しているのを見る中で、自分もあのゼミに入りたいと言う思いを持ってたくさんの生徒が希望してくるそうです。見学の時は八広駅を降りて資料室まできます。今は皮革・油脂工場からの匂いはほとんどでませんが、資料室近くになると生徒たちは臭い、臭いと言いはじめるようです。
さすがに資料室の2階まで上がってくると失礼だと思うのでしょうか黙るようです。私たちは昔の匂いを知っていますが、今ではほとんどにおいがしないと思っています。しかし生徒たちにとってはこの程度の匂いでも、匂うと感じるのです。このように学生が嗅ぎ分け違和感を持つことに、私としてはびっくりします。中・高校生と言うのは匂いについて一番敏感な時ですから、普段の匂いと違うことをすぐに感じ取るのでしょう。毎年臭いと言われるので私自身が不思議でしょうがなかったのです。よく考えると東京東部の地域もの作りの町墨田は、今では中小企業の工場が全くといって良いほどなくなってきていることに気がつきます。もの作りの町は、その工場によってさまざまな音を出し、匂いがしていました。今はそれがないのに気づきます。
少し整理しすぎかなと思っているのですが、学生はこんな感想を書いてきます。
「映像を見た時、加工前の豚の皮があまりに生々しくて正直驚いた。しかし、お話の中で豚を少しも無駄にせず全てを生活に役立たせるとおっしゃっていた。その考え方に尊敬した。豚の命を殺めてこうして人間の生活に生かすという流れは今では当然のことのようになっているが、今回の校外学習でありがたいことなんだと再確認でき、自分の知らない部分を知れて良かった。また、差別について。私は臭いでも差別が起こることに驚いた。そしてこの差別は知識の無さなのだともわかった。臭いは私も敏感なのでこの地帯の臭いを気にするのは理解できた。しかし、この地帯のかたを侮辱したり差別したりする気には到底ならなかった。むしろ尊敬の気持ちになった。」と。6時間かけて、この資料室に来たり、品川の芝浦と場のお肉の情報館に行ったりしてこの学校は取り組んでいます。
他に画期的なこととしてここ数年中学校の視察が復活しました。小学校、中学校、高校と一貫して部落問題を学ぶと言う学校が東京にはなかなかありません。西日本では結構あると聞いています。西日本からもここに学びに来ることもあります。しかし東京の大学に行ってその学びが少ないことは問題です。社会人になって企業研修でここに来ることもあります。人権学習は人間にとってこうした積み重ねの学びこそが最も大切であることを確かめ合いたいと思います。同じことをやっていても、小学生と中学生では反応が違いますし視点も異なります。あー素敵だなぁと言う感想を聞かされることもあります。年齢に応じた学びをしているんだなぁと言う実感があります。
4. 年に一度の地域の行事「きねがわスタンプラリー」
墨田区では学校教育で半分以上の子供達がここにきて学んでいます。しかし時代とともに、墨田区でも荒川区と同じように皮革工場がどんどんなくなっていくようです。この木下川地域のグラフでは2011年まで人口が減ってきています。それは皮革関連産業がなくなっていくと言うことに関係しています。しかしその後人口は増え始めます。これは工場が潰れた後に、建て売り住宅やマンション、アパート、高齢者施設が建って、流入人口が多くなるからです。町に新しい人が増えてきています。この新しい人たちがこの街の産業をどう捉えるのかということが大きな課題になっています。しかし、この人たちに皮革・油脂産業が私達の生活にどのように関係しているのかを知るすべをなかなか持ち得ません。新しく来られた人たちがこの産業をどう捉えていくのかと言うことは、これからを生きる地域の人たちにとって重要な課題になるはずです。そのため考え出されたのは、この街の中にある墨田区社会福祉会館、東京都皮革技術センター、「産業・教育資料室きねがわ」を町会の人の協力でスタンプを押しながら歩き、3カ所の施設で革工芸や見学を通して皮革と油脂のまちの世界を味わってもらう取り組みです。街の中を歩き、この地域がどんな地域だろうと言うことを知る機会になっています。今年で5年目になります。昨年スタンプラリーの前日に準備をしていると、近くの学校の児童と親がここに来ました。今作業している準備は明日のスタンプラリーのものですと説明しましたら、この若いお父さんは「自分は東北で生まれました。私の故郷は自然が豊かで自慢するものがあります。しかし私の子供はこの地域で生まれたのです。子供なりに自分の故郷を意識させたいのです」と言いました。それを聞いて私はびっくりしました。これまでこの地域を隠すと言うことに心血が注がれてきましたが、これなんだと思いました。故郷を知らせていく、これはものすごく大きな未来を展望する課題です。このスタンプラリーはそんな取り組みとして行われています。
5. 「資料室きねがわ」は、何を伝えるべきなのか。
この地域の皮革と油脂産業のことを教育の課題として話をしていますが、何を大切にして話していくのかということです。
これは1976年に私の最初の教え子が中学に入ってすぐの作文です。地域の真ん中にあった木下川小学校の生徒が地域外の中学校に通うようになってのことです。何人かの卒業生が書いてくれたうちの1人の生徒の作文です。
「私の住んでいる所は木下川とよばれ、皮やさん油やさんなどがたくさんある。だからいろんなにおいがする。みんなはくさいとか、木下川どくとくのにおいとかいう。においのことで私たちはバカにされたり、いろいろなことでくやしい思いをするときがある。これはお父さんやお母さんの小さいころからもあったと聞く。私がくやしい思いをしたのは、中学に入学してからのこと。いろんな生徒が集まり、木下川の生徒といえば35人という、ほんのわずかな数だった。みんな木下川といえばにおいのことをいう。運動会を木下川にある運動場でやった時、ちがう学校の友達から『木下川っていつもくさいの?いつもこんなにおいがするの?」と、いやな顔で聞かれた。私は「そんなことないよ』と木下川の友達と答えた。今になって考えると、なぜウソをついたのか、なぜほんとうのことをいわなかったのか、こうかいしている。
ウソをついた理由は、自分自身よくわからないけれど、きっとほんとうのことをいえばいやがられる、きらわれるとでも思ったのだろう。でも、今度聞かれたら、はっきりほんとうのことをいおうと思う。
私の友達で中学がちがう子も、とてもくやしい思いをしている。友達を木下川に連れて来た時、『木下川ってくさいのね』とやっぱりいわれたそうだ。もっとひどいことは、木下川にいるのはみんなバカだともいわれたと聞いた。
私はくやしい。みんながもうちょっと木下川のことを理解してくれたらなと思う。
来年、木下川から中学に行く子も私達みたいにくやしい思いをすると思う。そんなとき、木下川のことをはっきりいってわかってもらった方がいいと思う。でも、ほんとうはこんなこと私達でおわればいい。」
この作文には、大事な視点がたくさんあるのですが、今日は一つのことだけお話します。「木下川のことをはっきり言ってわかってもらったほうがいいと思う。」という事です。
もう一つ1989年のことです。これは今でも語り継がれていますが、木下川の子達が中学校に行った時に差別事件があって地域の人たちと教職員との話し合いが行われたことがありました。当時この中学校で登校拒否をしている生徒が4人いました。その内の3人の生徒が木下川小出身の生徒でした。どうして木下川の子供が登校拒否をするのか、地域の解放子供会の活動の中でわかりました。木下川の子に対する差別、いじめがあったのです。学校に行くと机の上には「死ね」(ママ)とかかれ机の中は道具類がバラバラにされていました。給食の時は好きなもの同士で食べなさいと言われ、誰も横にいなくなっていました。学校で精神的にきつい生活を強いられていたのです。この事件をきっかけにして、中学校でもいろいろな取り組みが行われるようになりました。これまで臭い臭いという話が教室でたくさんされていました。生徒達が教室の中で、この匂いの問題についてたくさん話されていたことに教師達は気づき始めました。1990年代この中学校の文化祭で「皮なめしをしよう」という劇が発表されました。木下川の子達は、木下川小学校で皮なめしを取り組み、皮革・油脂産業と私達の生活そしてこの産業に欠かすことのない「におい」について学んでいました。木下川の子達が中心になって中学校では生徒達が置かれている姿を劇として作り上げられていきました。こんなにおいのするところはつぶしてしまえばいいという声が多い中、まわりの多くの生徒達に訴えかける内容でした。筋書きは生徒達が実態にあわせて作られたと聞きます。劇の最後の方に木下川出身の子がこう訴えかけます。「木下川の事を知って欲しいんだ」と。その劇を出発に実際に中学校で皮なめしの取り組みが進められていきました。今その中学校は新校舎に作り替えられましたが、この時に作られた「革」が今でも廊下に飾られ続けています。木下川の子供達は何をみんなに知ってほしいのかと言うことが私達に問われているのです。
6.「木下川の子ども」作文集から
私たちの教育現場では何を教えるべきなのか、仕事の1つなのか、仕事にまつわる様々なことなのか、そのことを考えるために子供の作文を通して考えたいと思います。1957年から廃校になるまでこの木下川小学校ではずっと児童の作文集が作られてきました。普通の小学校では大変珍しいことですけれども今でもこうして作文を読むことができます。担任が学級で作文集を出すと言う事はよくあるのですが、学校としてずっと出し続けると言う事は珍しい事です。テーマは地域のこと、仕事のこと、家族のことなどが綴られています。昔はタンニン鞣しと言って、タンニンという植物の液を薄くした槽から濃くした曹に順番に皮をつけていくことで鞣しが行われていました。私達がよく見る少し硬い非常に革らしい革になります。今は大きなドラムでクロームを使って皮を鞣します。そんな鞣しのことを5年生の子が作文に書いています。
①ぼくの家は、皮屋です。 5年
「ぼくの家は、皮屋です。はじめにいろいろな皮をトラックでもってきます。その皮を、肉のあついところをたいらにします。それから、その皮からでたあぶら肉を、あぶら屋さんにもっていきます。その毛のついている豚皮は、こんど、毛をぬきます。その毛を、よくあらいほします。皮は、すき屋さんにだして、うすくしてもらいます。こんどは、薬で皮を、やわらかくします。それを、たいこにいれて、だしてほします。かわいたら、ちゅうもんの色をつくります。でも、色をつくるのはむずかしそうです。その色を、はけでぬります。そのかわで、二階のてんじょうは、いっぱいになってしまいます。かわいた皮は、ふっかけでまたそのぬった色の上にうすく色をかけます。その薬が、毛についたらおちません。その色をおとすのは、シンナーという薬でおとします。」
ずいぶん前に書かれた作文ですが、この皮革なめしの工程はほとんど変わっていません。皮はなめす以外に、皮についた脂は削り取られ油脂工場に引き取られます。また皮のトコ(お肉に近い皮)から削り取った皮は、膠、ゼラチンなどにも利用されます。皮から抜かれた毛は硬いのでブラシになり他にも用途もあります。結構木下川の周りにはブラシ屋さんがありました。そうした意味で本当に捨てない文化、無駄のないもの作りが形作られています。
②馬の皮工場 5年
私の家の仕事は、皮の製造です。私の家は、コードバンという馬のおしりの皮を使います。その皮は、だいたいヨーロッパからきます。一部分アメリカ、アルゼンチンもあります。ヨーロッパのフランス、オランダ、スペイン、ドイツ、イギリス、その他ヨーロッパの国々から買っています。お父さんが時々ヨーロッパに行って、皮を仕入れてきます。その皮が製造されてからとん屋さんやベルト屋さんに売られ、次々とわたって、製品になりデパートに売り出されます。
③は虫類の革 4年
(前略)・・・おかあさんのしごとはかわです。それは、ふつうのかわとはちがいます。そのかわは、わにのかわやへびのかわなどのかわです。どうぶつのかわは、わにのあたまをきり、あしをきり、かわをかわかすしごとです。へびはあたまをきり、くぎでいたにはりつけます。
おかあさんがこのまえプレスをやって手を二ほん、きりました。けっかんをきってしまいました。でもへいきでした。ぼくはそのときカァッとしました。そして、プレスはきらいになってしまいました。それでおかあさんは、かわやへいきました。
木下川の皮なめしは、ブタ革だけではありません。様々な動物の皮を鞣しています。そのため今流通している国は東南アジア諸国が中心ですが、少し前まではヨーロッパ、アメリカともつながりを持ちます。しかもその原皮から鞣すという工程は、簡単にはできません。子供達は、親の危険を伴う作業を目の前で見て育っているのです。
④「はりかわ」 5年
私は妹と弟ではりかわをはっているのをみました。はっている人は、あせだくだくになっていても早くやすまないでやっていました。くぎを一回かわの所にさしてからまたぬいて、かわをのばしてからまたうちこみます。私は見ているうちにやりたくなったのでやらしてもらいました。妹も弟もやりました。はじめのうちは早くできませんでした。やっているおばさんが「くぎをまっすぐうちこまないでななめにうちこむといいよ。」と教えてくれました。私はあせがでてきて、暑くなるとすぐやすんでしまいますが、おばさんたちはやすまずやっています。またやりはじめました。だんだんやりかたがわかってきて早くななめにうちこむことができました。妹はすこし早くなりました。弟はあいかわらずのんびりやっています。弟は力がないので弟のやったところをもう一度やりなおさなくてはいけないので私はめんどくさくなったので弟に「ぼくやらないであそんでいなさい。」というと「うん。」といってあそびにいきました。はりかわをやっているうちに手がいたくなりました。おばさんに「手がいたくならない。」ときくとおばさんは「なれているからへいきだよ。」といいました。はりかわはなれないと手がいたくなるということがわかりました。三時になったのでやすみにしました。
私と妹はつづけてやりました。お昼から三時までにはりかわをするかわの数の半分できました。妹が「いっぱいはれたからおとうさんにおこずかいもらおうね。」といったのでおばさんたちがわらいました。そしたら妹は自分がわらわれているのもしらないでわらっていました。少しやすんだのでまたはじめました。おばさんと話をしながらはりました。学校のことやいろいろなことを話しました。そこに弟がまたきたので私が「ぼくがくるとありがためいわくよ。」というと弟は「おねえちゃんがいるとありがためいわくだよ。」といいました。手がいたくなったのでやめておかあさんに「はりかわてつだったのよ。」といった。おかあさんは「えらいわね。」といってほめてくれました。おとうさんはおこずかいをくれたのでうれしかった。
この作文もそうですね。子どもは親が働いている仕事を目の前でよく見ながら育っています。こうした風景は今の日本だとほとんどなくなってきています。子供は保護者や大人たちがどんな仕事をやっているのかわからないと言う事は当たり前にあります。もの作りの街木下川では親の仕事、労働が目の前に見えると言うことが特徴的です。ちなみにこの作業は「はりかわ」ですが、板に皮を釘を打って干す仕方は、1963年頃までこの地域でしていたようです。それ以降、機械で乾燥する方法(ネット張り)が流行します。地域の工場は、皮を干す作業だけを専門にする分業形式の工場が多くあります。写真に載っている工場も、小さいころからネット張り専門でした。毎朝100枚の乾いた皮を板から剥がしてから学校に行っていたといいます。今では地域のたいこ打ちの師匠として夏の盆踊りを中心に活躍しています。
豚の皮は厚いですから、皮の裏の部分(ニベ)を削って、その削ったものと骨を煮て膠が作られます。これはにかわという接着剤です。木下川でも以前は5、6軒の膠製造工場がありました。乾燥してこの写真のような形になります。膠は昔から色々なものに使われています。マッチを作るときにも使われました。墨の原料にもなりました。またゼラチンにして写真のネガフィルムにも使われました。私たちの暮らしや文化の中にある様々な製品の素材に変わっていきます。それがこの地域で作られるものの面白さでもあります。
・にかわ・ゼラチン・油脂
⑤「町の人たちのくらし」(にかわ) 4年
ぼくのおとうさんはにかわをつくっています。ぼくのうまれていないときは、市川の山のほうにすんでいたけれどふべんなので向島にひっこしてきたそうです。にかわをつくるには、皮のくずのにべを原料にします。にべをきってたいこにいれて、りゅうさんであらってからかまにいれてにつめます。
去年まではかまに入れるのに竹みで入れていましたが、この11日からベルトコンベアーで入れています。につめて出てきたにかわの水をげんあつがまでみずをとってからふねにいれて水でひやしながらかためるのです。ふねといっても長方形のちいさいのです。それから、ついこのごろエレベーターができました。これはちいさなにかわを、こちこちにかわかすところまではこぶのです。
前まではかいだんをのぼってはこびました。それではたいへんなのでエレベーターをつくったのです。ぼくはまえよりずいぶんべんりになったなあと思います。
市川といっても千葉県の市川ではありません。牛革の産地兵庫県でしょう。子供の作文に膠の作り方が細かく丁寧に書かれています。膠の文化は日本文化の源流としてもっと表に出されてよいと思います。
⑥あぶら工場のようす 3年
うちは、あぶらやです。近所の皮やさんから、げんりょうの油を夕方あつめてきます。げんりょうの油は皮のうらについています。夕方集めたげんりょうはあくる日の朝早く家の工員さんが油をしぼる仕事をします。げんりょうは大、小があるので、それをこまかくするきかいに入れてだいたい同じようにします。それを大きなかまで下からひをたいて、天ぷらみたいにぐらぐらにます。かまの大きさは直径1メートルいじょうもあります。それが六つもあります。それで三十分ぐらいにると中のげんりょうは油のぶぶんだけげんりょうがふえて、かまにこまかいものがうかんできます。おとうさんにきくと「それは、油かすというものだよ。」といいました。そうなった時に火を止めて中にういているものをはりがねでできているあみですくいます。すくったかすはハイドリックというかすをしぼるきかいで小さなかたまりにします。出来上がったのは円ばんみたいです。その円ばんはひりょうやさんがとりにきます。くだものばたけのひりょうにするそうです。かまで出来上がった油やしぼった油はドラムかんにいれます。ドラムかんの中に入れるぶんりょうはみんな同じにします。めかたは180キログラムもあるのだそうです。つめたドラムかんは夕方になると、油のとんやさんが自動車でとりにきます。はこばれた油は大きな工場できれいにされて、町の肉屋さんや天ぷら屋さんや、そのほか、油はいろいろりようされています。毎日どんどん出来上がっていくそうです。ぼくは、油をしぼったかすでもくふうすればなにかりようできるものだと思いました。
あぶら屋さんの仕事をこれほどわかりやすくしかも全体像を3年生の児童がかけるとは、ビックリします。あぶら屋さんには、豚の原材料とは別にした工場があります。料理屋さんなどから出る廃油です。これも処理する工場が地域にはたくさんあります。飼料、肥料を始め新聞紙のインクなど再利用、リサイクルとして利用される工場です。
⑦「あぶら工場の様子」 1年
ぼくんちのこうばには、おおきいかまがあります。ぶたのみみとうしのしっぽをいれてあぶらをつくります。にてほしたらほうちょうできります。
・はたらく女性たち
⑧「お母さんの仕事」 4年
わたしのおかあさんは、はたらきものです。仕事のほかに宮本の会社に、はり皮の仕事に行きます。カレンダーに残業した日には印をつけ、「今日はこんなにやったよ。」とわたしやお兄さんに自慢するようにいいます。また一緒に働いている井上さんのおとうさんは仕事が早くてかなわないそうですが、家に帰ってくると、「こんどはがんばらなくちゃあ。」などいってます。だから働くのがすきなのかもしれません。でもわたしは、たいへんだなあと思わずにはいられません。
おかあさんの一日は朝5時頃おきておこめをとぐことから始まります。夜いくらおそく帰ってきてもおくれないでおきます。ごはんを食べるとすぐ食べたあとをかたづけたりするからあまり休み時間がないのでたいへんだとおもいます。かいしゃへいくとすぐ仕事がはじまります。はり皮とか皮のぼろおとしとか、皮の色をぬったりする仕事をしたり、いろいろな仕事をするのです。わたしは、ときどき3時休みにうちのそばの宮本の会社へ行ってかたをもんだり足をもんだりしてあげます。ときどきつかれすぎてあたまがいたくなったりして会社を休むときもあります。あんなにはたらくのだからしかたがないと思います。よるごはんは、あんまりつかれているときはわたしがつくってあげるけど、たいがいはおかあさんがつくります。やおやさんがこないときやおかあさんがいかない日は、お兄さんが自転車でおつかいに行きます。ときどき食べるのがおそくなって7時30分ぐらいになるときもあります。おせんたくは、だっすいまでじどうなのであまりくたびれません。ほすのはわたしやお兄ちゃんがほします。
おかあさんの仕事はほんとうにたいへんだと思います。
⑨おかあさんの手 5年
おかあさんの手は、あたたかい。ぼくがそとからかえってくると、「手をみせなさい。」といった。何をするのかとおもってみせたら、おかあさんの手であたためてくれる。
工場ではたらいているから、おかあさんの手はかたい。それよりおとうさんの手はかたくて、くらべものにならない。あぶらをいじるので、いつもせっけんであらってきれいにしている。
おかあさんの手は、ざらざらになっている。ぼくたちにいろんなものをつくっている。ぼくたちのすきなものをなんでも作って食べさせてくれる。だからすきだ。おかあさんの手はいつもあたたかい。おかあさんの手はりっぱな手だ。だから、ぼくはすきだ。
女性の働き手は、今はお弁当屋さんがありますが、工場で働く人たちの食事などを作る仕事に携わる人、或いは工場の2階で細かい作業や力をそれほど使わなくてよい仕事、仕上げの最終工程などの担い手となっています。子供達は、そのお母さんの労働と家事をよく見ています。
⑩おかあさん 5年
画用紙いっぱい おかあさんの顔をかきました。
なんの色を ぬろうかと考えた。
おかあさんは 工場ではたらいているから 茶色にしようかと思った。
それとも おふろから かえってきたときのみかん色がいいかと思った。
ねるところは 一日の仕事でつかれているから、どれにしようかと迷った。
だけど黒や茶色じゃ家の人が笑うからよそうかと思った。
仕事がおわってゆっくり休んでいる、その時のはだ色を力強く ぬることにした。
仕事が生活と密着しているからこそこういう作文が書けるのです。年配の方は、こんな作文を見ると、自分もこんなふうに育ったんだよねと懐かしがるかもしれません。
・私たちの町きねがわ
⑪わたしたちの町 6年
東京都墨田区吾嬬町、そのはずれに、私たちの住んでいる「木下川」という小さな町があります。木下川には工場が多く、その大部分は皮工場です。そのため朝になると、千葉方面からのつとめ人が多く、荒川駅は毎日にぎわっています。
今、私達の町では、一つの大きなきたいを持っています。それは、荒川放水路の堤防工事が、完成を間近にしているということです。日曜日などの工事が休みの日に、もうできあがっている所のかいだんを登って、堤防に上ってみると、これが、もとの土の土手だったのかと思うほどりっぱです。道路に面した所は、長方形の石を組み合わせてあって、見たところもきれいです。おそろしいこう水から、私たちを守ってくれると思うと、とてもうれしく感じます。
だが、私たちにはなやみもあります。それは、遊び場が少ないことと、道路が悪いことです。
遊び場の方は、学校の校庭を利用したり、最近できた、西八公園などで遊んでいますが、自動車のたくさん通る道路で、ビクビクしながら遊んでいるのもよく見かけます。そんなとき、私たちは、もっともっと、私たちの安心して遊べる遊び場がほしいと思います。
もう一つは、道路の悪いこと。ちょっと横道へ入ると、水たまりなどがたくさんあり、ひどい時には、そこを通れなくなってしまうことがあります。いくら横道でも自動車も通るし人も通るのだから、きれいにほそうしてもらいたいと思います。
私たちは、この木下川で生活していくために、いろいろな悪い所をよくするように努力し、町を明るく住みよい所にしていきたいと思います。
近くに京成電車が通っていて、朝早く電車が止まると、何百人という人が列をなして木下川に入っていったといわれています。これは北千住も同じです。皮革産業が多くの人手を必要としていました。
当時の子供たちは臭いと言う事についてどう書いているのかそれが知りたいなと思っていましたが次のように書いています。
⑫私たちの町 5年
わたしの家にくるしんせきの人は、バスにのって来ます。でも、おりるばしょはわかるのですが、おりるていりゅう所の名が、わからないのだそうです。でも家の近くになるとにおうからすぐにわかるのだといいます。わたしたちは、すみなれているせいかそんなにおいはしないと思います。でも時どき、ぷーんと、なんともいえないにおいがする時もあります。でもしんせきの人が、くさいというのはうそではないことはたしかです。どうしてかというと、この町は、おもに皮の仕事をしょく業にしている家が多いからです。わたしの家の方では大きな皮工場があります。大きな工場は、あまりありませんが、小さいといっては、おかしいかもしれませんが、小さい工場はあんがい多いと思います。
でも学校に通う時など、道のすみや道路のまん中に、皮のかすのようなものが、たまたまおちていることもあります。小さいのばかりではありません。時たま、大きな皮がおちているときもあります。わたしは、きもちがわるいので、かけだしていきます。道のすみにおちていた方がいいと思います。なるべくごみをすてないようにしていつまでもすみよいきれいな町にしたいと思います。
こんなふうに匂いのことを言っています。あまり匂いについては感じないけれども、臭いもあると思うなと言う感じの雰囲気で捉えられているところが地域で生活する多くの子供達の感じ方なんだと思います。子供たちは親の仕事を身近に感じながらとらえているのですが、この仕事が社会とどういう関係を持っているのかということがこれまで明らかにされてきませんでしたし、むしろ隠されてきたといえます。そのことは、地域外で生活する人たちにとってはよけい冷たく対応されることがよく聞かされます。
上記の作品は、1960年代70年代初期の作品が主です。皮革と油脂の街で生活する子供たちの姿が作文に生き生きと書かれています。子供たちは、親の労働を間近に見て仕事を描いていますが、これが皮革と油脂の街、職人の街墨田に住む子ども達と親たちの姿だと言えます。このように親の労働が見え、その中で生き生きと生活している姿を知らずして「臭い」「見たこともない労働」として切り捨てられ、あげくには「人間のする仕事じゃない」などと揶揄されてきました。僕たちが部落問題を見る時と言うのはそういったことを隅々まで見えることが大切なのです。
「資料室きねがわ」を開き、関東各地の部落の人たちがこの東墨田会館を使って交流に来てくれることが多くなってきました。昨年千葉の京成沿線の「村」の方たちがマイクロバスを使って交流に来てくれました。一通り木下川地域の歴史と産業について学び合い、革工芸をしながら交流しました。話し合いの最後の方になり昔の皮作りの道具を前にして80代後半の方が木下川の牛革なめしの工程を延々と話し始めました。一緒に来ていた事務局の方がびっくりしていました。千葉の地域でいろいろ話しながら運動をしてきたが、あのおじいさんが墨田の皮革工場で働いていたのを初めて知ったということでした。東京墨田の木下川で皮なめしの仕事をしていることは隠すことだったのでしょう。「差別」とどこかで繋がってしまう恐れを感じていたのかもしれません。このようにして皮革なめしの仕事だけでなく部落問題そのものが見えないようにされてきたのだと思います。
もう一つ別の日に来られた千葉の人の話です。「臭いと差別」の話をしていた時、自分も皮革工場で働いていたと言うことを話してくれました。その人は、若い頃荒川区の牛の皮革工場で住み込みで働いていました。朝5時に起きて働いていたようです。それが若い頃辛くて辛くて、実家から通勤しようと思い住み込みを辞め実家から通うことにしました。通勤するようになってすぐ、北千住のホームでしょうか「なんだこの臭いは」と騒がれ何人かの暴漢に下駄で頭を叩かれたそうです。それ以来住み込みも通勤もダメだと観念し、皮革工場を辞めたと言う話をされました。どちらも昔のなめし道具を前にして話されました。皮革と油脂そして臭いに関わる出来事は、それぞれ心の奥にしまわれてきたのでしょう。
芝浦と場の若い労働者と交流しました。品川食肉市場の人たちは、自分たちの仕事を知ってもらおうと、また自分たちの仕事場から出た原皮がどのように革になっていくのかを知ろうと交流が持たれました。その中の1人の労働者が交流会で手を上げ話してくれました。この木下川の近くに住んでいて、「今日ここに来れて嬉しい」と話してくれました。「と畜」の仕事を多くの人に理解してもらおうと取り組んではいるが、なかなか自分の小さな子にはこれまで話せなかったといいます。あるとき「お父さんこの地域は日本一の革を作っているんだよ」とお父さんに誇らしげにしゃべりかけてきたそうです。そうですその子は学校の社会科見学でここに来て学んでいました。その誇らしげな話し方を聞いて、もしかしたら自分の子に「と畜」の仕事のことを話せるのではないかと思ったと言いました。食肉市場に学びに来られた人には話せても自分の家族に話していくと言う事は大変なことなんだと思わされました。ここで地域のこと、皮革産業のことを話していくと、実は私も皮革工場やと場で働いていたんですと言う話がこれまでに何度も聞かされるようになっています。これまでなかなか知り得なかったこととは「差別」問題と密接な関係があるからだとわかります。
最後に、ここに教え子や子ども会卒業生が来てくれることはとても嬉しいつながりです。昨年まで大型車の運転を仕事にしていた教え子ですが、くも膜下出血で仕事ができなくなってしまいました。もともと人と喋ることが上手でない子でしたが、病気で余計喋りづらくなっていました。それでも家庭を守らなくてはと言う一念で新しい職探し、介護職の勉強に励みます。墨田支部の事務所で机を借り、朝から夕方まで勉強していた教え子でした。親から聞いて知っていたのですが、彼はしばらく「と場」で働いていたそうです。これまでどこの「と場」でどんな仕事をしていたのか話してくれませんでした。たまたま企業の研修が東墨田会館であって、普段研修に来られる人たちは、どんなことをここに来て学んでいるのか聞いてもらおうと思ってこの教え子も一緒に研修に参加してもらいました。研修の後、その教え子が話してくれました。「僕は埼玉のと場で働いていたんだ」と自分から話してくれました。「豚に電気ショックを与えるところで働いて、1週間で止めたんですが・・」と。小学校の時だけの学びでなく、中、高、大学そして社会人になっても自分たちの仕事を捉え返す場や人権を考える場が必要なんだとつくづく思いました。見えなくされてしまっている「差別」、それを解き放つ場が各地にたくさんできる必要があるのだと感じます。
7. おわりに
最後の最後になりますが、6月28日ハンセン病家族への集団訴訟で国の責任を認めた判決が出されました。訴訟の原告団長は、林力さんです。東京で全同教大会を開いていたときの全同教副委員長でした。10数年前、この東京の研究集会で講演してもらいました。その時に話してもらい、また彼の著書の中でも書かれていて忘れられない言葉があります。「差別にあらがう人たちの突き抜けるような不思議な明るさを見て、父の存在を隠し続ける自分を恥じた。」「恥ではないものを恥とする時に、本当に恥になる」と話されていました。圧倒される表現です。同和教育、人権教育は今にしっかり引き継がれています。