皮の使い道は、1872年(明治5年)に軍隊ができてから急に増えていきました。 特に兵隊の靴や、背のう、バンド、馬のくらなどに皮がどうしても必要になってきたのです。人々の暮らしも変わってきました。それまではみんな着物を着て下駄をはいていましたが、洋服がだんだんはやって来て、下駄の代わりに皮靴をはくようになりました。そのうちに革は鞄や、ハンドバッグ、ランドセル、手ぶくろのようなものまで使われるようになりました。
 明治の末頃になると、明治皮革株式会社という大きな工場も建てられるようになり、皮工場の数は30軒ぐらいに増えました。
 今のようにドラム(タイコ)やバンドマシン(皮の厚みを決める機械)もありません。樽の中に皮を付けて、それを足で踏んでいたので、一枚の皮を仕上げるのに40日もかかりました。
 「たるにつけた皮は、下駄をはいて踏むんですが、冬なんか冷たくて足が凍ってしまいそうでしたよ。それを考えると、今の皮作りなんか楽で嘘みたいですよ。」これは、あるおばあさんの話ですが、朝は5時頃に起きて、夕方7時頃まで、タイコの中に足を突っ込んで皮を踏んでいたということです。
 皮なめしは、はじめは牛がほとんどでしたが、明治の末頃になると、豚の皮もなめすようになりました。
その間に日清戦争、日露戦争があったので、皮がたくさん必要になって牛の皮だけでは間に合わなくなってきたのです。
 そしてこの頃から皮工場の設備もだんだん良くなってきました。大正3.4年頃には、たるの代わりにモーターで動くドラムも使われるようになりました。そのため、なめす皮の数も前よりずっと増えて、町も活気づいていきました。
 皮工場の数は、その後も増え続けて、第一次世界大戦の終わった1922年(大正11年)頃には60軒近くになりました。皮工場の数が多くなると、それと一緒に、皮を染める工場や、皮から出る油で石けんや、膠、ラード、豚の毛で刷毛を作る工場なども次々に増えていきました。
 こうして木下川は、皮の町として全国に知られるようになりました。

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