1913年(大正2年)から工事が始められ、18年かかった荒川放水路開削は、地域を大きく変えていきました。
 1922年(大正11年)3月3日、京都岡崎公会堂で、全国水平社が創立されました。
この月の21日には、牛込で東京水平社の創立相談会が開かれています。ここ木下川では、具体的な人名・足跡が発見されていませんが、中井堀に面したとおりには荊冠旗が掲げられていたのを覚えているという人もいました。
 また1923年(大正12年)の9月1日、関東大地震が起こりました。震度6という大変大きな地震でした。そのため東京ではたくさんの家がつぶれたり、焼けたりして、およそ6万人の人たちが死ぬという大被害を受けました。
 でも、木下川のまちは、幸い屋根の瓦が落ちた程度で、たいした被害はありませんでした。信心深い人の何人かは、すぐに浅草にある菩提寺長泉寺に出向き寺の掃除、墓石の修復にかかっていました。
 「朝鮮人殺害事件」が起きたのはこのときのことです。どこからか“朝鮮人が町に火をつけた”とか“井戸に毒を投げ込んだ”とかいうデマが広まって大騒ぎになり、あちこちで罪のない朝鮮人が、むごい目に遭わされました。
 木下川近くの四つ木橋のところでもそういうことがあって、朝鮮人が何人か殺されました。1982年以来毎年橋のたもとで追悼式が開かれ、2009年9月には追悼碑が建立されました。
 1925年(大正14年)にもう一度皮革業業者に対して強制移転の話が持ち上がりました。関東大震災後の膨張する都市を整備する都市計画として東京では、「市街地建築物法」に基づく用地地域指定が行われました。
 危険物や衛生上有害と見なされた皮革製造、毛皮精製などは、小松川、砂町、葛西という荒川放水路の河口付近に15年後(1940年)までにすべて移転しなければならないという行政指導が始まりました。
 この時期に東京府の調査では、「皮革工場、油工場、骨工場地ニシテ、異様ノ異臭鼻ヲツク、溝、川ヘ皮ノクヅ流レ水ノ流レ悪シ 特ニ夏ニ於テハ不衛生ナリ」と報告が出されています。地域の環境改善という方向でなく、追い立てる施策は続いていたのでした。
 一方、1930年(昭和5年)木下川では荒川の組織とも連携し「東京製革業組合」が政府に強制移転反対の陳情書を提出しています。
 この動きは、国会や内務省、警視庁にすると共に益々大衆的な闘いを組むようになりました。その結果1934年(昭和9年)政府は、もっともである、行政指導はしないと「郊外移転」は事実上棚上げ・撤回されていきました。
 その間東京社会事業協会に融和部が設置1932年(昭和7年)3月融和事業が始まるやすぐにその年の4月木下川に「吾嬬奉明会」が設立されていきました。
 1937年木下川小学校開校の年の1月、報知新聞東京版「大東京を美化しよう」と言う新聞記事が載せられました。1940年に東京でオリンピックを開こうというときに「三河島や向島のある部落のような醜景を、この大東京の真ん中にさらけ出して得々としているようでは、東京市民もまだ文化人といえないでしょう」こういう記事が載せられていくちょうどその年に開校ですこの時は、32年に作られた融和団体「吾嬬奉明会」会長の松山さんを中心として抗議運動に入っていきました。
 時は、日本が中国に攻め込んでいった1931年(昭和5年)満州事変。15年も続く戦争への道をたどっていったときです。

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