葦っ原と田んぼで、とても工場や家を建てる場所ではなかったといわれるこの地区は、「製皮業になるなら、泳ぎを先に習え」と言われるほど、昔から大雨が降ると荒川の堤防が壊れて、たびたび大水に見舞われました。中でも、1910年(明治43年)の大水は大変なもので、墨田区中が海のように水浸しになりました。
そこで大水を防ぐために、荒川放水路を作る計画が立てられました。荒川放水路は、1913年(大正2年)から工事を始めました。今の北区の岩淵という所から、海までの24キロメートルという長い距離です。
全部を掘り終わるのに18年もかかりました。この工事がすっかり完成して、初めて水が通るようになったのは、1930年(昭和5年)のことでした。荒川放水路ができてから木下川の様子はたいへん変わりました。放水路の幅は400メートルありますから木下川の面積は前の半分くらいに減ってしまいました。 そして今までそこに住んでいた人たちも、今の木下川と川向こうの本田村(今の四つ木、東四つ木)の方へ移っていきました。
耕す土地が狭くなったので農業を続けていく人の数は次第に減っていきました。こうして木下川は年ごとに静かな農村から町の姿に変わっていったのです。
⇒3.皮工場の発展へ