地域の思いは皮なめし  

   地域の思いは皮なめしへ
                           東京都墨田区立吾嬬第二中学校(当時)岩井春子

はじめに
 差別事件があった学年が卒業した後、1994年3月に卒業した生徒たちが入学して以来、木下川地区とその地場産業である皮革関連産業について、取り組みを進めてきた。こどもの思いにつき動かされ、親の思いにふれながら共に歩んできた3年間である。
 入学当初、子どもたちの間にとびかっていた木下川をめぐっての言動。それに対して、木下川小学校出身の子どもたちが、初めて自分たちの思いを出していった1年生のときの「私たちの木下川」。2年生になって、つづきとして取り組まれた文化祭での「皮から革へ」の展示発表。
 3年文化祭では、「皮から革へ パートⅡ」と題して、原皮を自分たちでなめす活動に取り組んだ。これには学年の四分の一を越える生徒が参加し、ようやく周りの目を怖がらずできたのである。
 「わかってくれるだろうか」という不安と闘いながら、子どもたちは、仲間をふやし前進してきた。それは、子どもたちにとって、自分の生活や仲間の人間関係の問題を考える道すじでもあったと思う。一方、私たちにとってそれは、「木下川にふれてくれるな」という保護者の反対に出会い、けれども取り組みを積み重ねることによって、思いを語り協力してくれる親と出会うことでもあった。

1年生のとき― 初めての取り組み ―
 子どもたちが入学してきたとき、それ以前には無自覚だった「木下川」をめぐっての「くさい!」「窓を閉める!」に、私たちは否応なしに気づかされ、木下川を正面にすえた取り組みから逃げるわけにはいかなくなった。けれども、木下川をめぐっての取り組みの具体化は、手間どった。私たちのなかに、一歩前へ進むことへのためらいがあったのだと思う。幸い子どもたちのなかには、私たちに「くやしさ」を伝えて、何とかしたい思いでいることを示しつづけてくれるものがいて、具体化することができた。
 映画「朝の空気は冷たい」の感想に、「私が一番くやしい思いをしたのは、中学校に来て、木下川のことを言われて、なにも言いかえせなかった私です(A子)」と、少なからぬ子どもから、入学以来の問題が出せれてきたのを手がかりに、木下川小からきた子どもたちと話しあいをつづけた。「裏目に出るのがこわい」という不安が乗り越えられ、「私たちがとめなきゃ、とめる人いないんだよね」「一人でもわかってくれる子がいればいい。黙っていないでやろう」という決意になっていった。
 学年のみんなへの問題提起になる前書きと、映画の感想文のなかから共通した思いを伝える部分を抜粋して、プリント「私たちの木下川」をつくり、学年集会を持ったのである。これを教師が読み、学年の生徒に語りかけ、その後、各学級でそれに対する感想を書いてもらった。
 一部の保護者から「木下川にふれてくれるな」という思いがよせられるなか、子どもたちも私たちも、大きな不安と緊張を持ってのぞんだのだが、終わって、感想文を読んで、不十分であっても、やってよかったのだと確信できた。
 やった子どもたちからは「みんなには、これが全部の原点、ゼロだと思って、真剣に考えてもらいたい(B夫)」「でも木下川のことをちゃんとしってもらいたいいっしんで こういう会をひらいたということが みんなにつたわっているか まだそれが不安だ。なんどもいうけど、うれしかった(C夫)」と、まだまだ残る不安や、でも一歩前へ進んだという気持ちが出され、一方、「たしかに、今までの事を考えてみると、授業中や休み時間に窓からにおってきた事があった。私は口には出さなかったけど『くさい』と思い、いやな顔はしていた。その一言やいやな顔一つで、木下川のみんながいやな思いをしていたとは、ぜんぜん知らなかった」と、それが直接クラスメート自身の問題としてあることに気づき考える気持ちがめばえたのである。
 一学期からの取り組みのなかで、真剣でない子どもたちがいることも知っていて、それでも、真剣にうけとめる人もいるからと、生徒たちは、「木下川」を出して学年で取り組む決意をし、やってよかったと語ってくれた。
 木下川小における「地域を誇りに思う」教育実践の積み重ねや、解放子ども会活動の積み重ねのうえに、私たちの取り組みはあった。そして、私たちも、入学当初から、木下川への言動に対して無自覚ではなかった。子どもたちと共に考え、地域や保護者の思いに学ぶ道筋にいた。だからこそ、地域を愛し誇りに思う気持ちを認めさせたいとの思いを、生徒が私たちに示してくれたのだ。黙ってがまんしているのはおかしい、という声にできたのだと思う。


2年生のとき -文化祭で「皮から革へ」を取り組む -
 文化祭について各学級での参加内容が決められるころ、A子が1年で取り組んだ「私たちの木下川」のつづきとして、文化祭で何か取り組みたいといってきた。1年のときに取り組みの中心になっていた生徒ら何人かと相談し、「皮から革へ」をテーマにして展示を行うこと、学年全体に参加をよびかけて、やる気のある人たちで集まってやることにした。
 参加できる時間だけでよいということで、木下川小出身の生徒21名中の8名と、そのほかに数名の参加があった。
 都立皮革技術センター、木下川小など近隣小学校や皮革工場の協力により、かなりの資料を集めることができた。原皮(皮)から革への変化を書いたり写真で示すだけでなく、もらってきた工程ごとの本物の皮の小片を展示し、見学者に、なぜこの展示を行ったのかを理解してもらえるようにと、見学者へのよびかけをつくった。牛革、豚革、羊皮、魚や蛇やとかげの革などの本物を展示し、会場に入ると皮革のにおいがするというにぎやかな展示ができた。
 A子にうながされて、かろうじて「私たちの木下川」のつづきが取り組めた。私たちが、親たちの反応に対し臆病さを持っていたから、学年のごく一部の生徒での取り組みになってしまったし、はたしてこれでよかったのかという疑問も残った。が、かろうじて一歩前進できた。そういうなかで、彼らが「こわかった」のは当然だったろう。けれども、1年での取り組みの成果として、ほかの小学校からきた子どもが何人かでも一緒にやったことの意味は大きかった。
 事前に、この展示の位置づけについて共通理解を求めておかなかったことなど、不十分さも残して、しかし、私たちは、この文化祭が終わったとき、もう後戻りはできない、さらに「一歩一歩前へ前へ」共に進みたいという思いを確かなものにしていた。


3年生になって -皮から革へ パートⅢ -
 2年のとき、文化祭の準備が始まってまもなく、C夫が仲間に絶交を宣言されるということがあった。ところが、文化祭後しばらくして気がついてみると、絶交宣言をした生徒だけでなく、それまでの取り組みの中心になってきたグループがバラバラになっていた。小学校時代からの人間関係のつまずきが表に出てきていたのだった。
 今のままでは、3年生の学年としてのつぎの取り組みは不可能だ。今までの小学校や中学校での取り組みが、何だったのか。自分たちの問題とも重ねて考えてみようと、気持ちを出しあった。そして、木下川をめぐる学年の取り組みは、何がどうあれ一緒にやれるし、やろうと思っていることが確認された。
 9月になり、文化祭の取り組みを考える時期がきたとき、私たちは、去年までの取り組みをさらに一歩進めたいと思っていた。
 そして私は、彼らがこじれた人間関係をつくりなおせるとしたら、この取り組みのなかからしか、その可能性は見つけられないと思っていたし、夏休みに妹が交通事故死したことのショックから抜けだせないでいたA子に語りかける道も、ここにあると思っていた。
 けれども、何をやればいいのか、何ができるのかがみえてこない。今年は、子どもたちからの提案に期待できない。半端な内容ではいけないということだけがわかっていた。そして、ようやく考えついたのが「皮なめし」だった。
 中学校では授業とのかねあいで無理だと思いこんでいた「皮なめし」。豚の原皮をもらってきて、洗濯機をタイコ代わりにしてなめし、スウェードをつくろうというのである。
 授業中の作業は認められないと思いこんできたが、この学年なら、できるかもしれない。でも、親からは、勉強にさしつかえると苦情はこないだろうか。子どもたちは、やる気になってくれるだろうか。私立高校の入試説明会へもいかなければならない。心配はきりがなかった。が、問題は、1年のときから取り組みの中心になってきた子どもたちが、その気になるかどうかだった。A子やB夫やC夫たちに、皮なめしをやろうと声をかけてみた。彼らの心配は「何人くらいやる子がいるか」というところにあった。それを知り、決心をかためることができた。
 文化祭には、学年4クラス約140名が、それぞれの希望でいくつかにわかれて取り組むことになった。「皮なめし」には何人集まるか。誰が参加してくるか。希望調査の結果、「皮から革へ」に40名の生徒が参加することになった。木下川小出身の子どもたちのなかにも、去年と違い迷わず希望するものがふえた。実際の皮なめしの作業を考えると、多すぎて収拾がとれるだろうかとも思ったが、大勢が参加することに意味がある。内心どうなることやらとも思いながら、準備を始めた。木下川小学校へ洗濯機を借りにいき、それをすえつけるのは、「やるよ」と声をかけて集まってきた生徒と一緒に行った。土曜日の午後いっぱいかかったこの用意の雰囲気から、「結局木下川小の子どもたちがやるだけ」になってしまうかという心配はなくなった。
 始まってみると、小学校で経験をしてきた木下川小出身の生徒を含め、薬品の計量も何も自分たちの手で進める取り組みに、「自分たちで」皮をなめしていることが実感できた。休み時間や放課後の作業には、分担を越えて集まったり、予想以上に大変な作業をおもしろがったり、皮の変化に驚いたりであった。子どもたちは、日ごとに「これに参加してよかった」という様子をみせていった。そして、それは私たち教師にとっても同様であった。
 作業のなかに機械を使わなければならない工程がある。それは、どこかの工場にお願いしなければならない。子どもたちに「家の人にきいてみて」と声をかけて、協力が得られないだろうかと考えた。だめだったときは皮革技術センターに依頼するしかない。
 1年のときの取り組みに反対をした保護者がいたが、そこの生徒も今年は率先して参加していた。2年のときお父さんが亡くなって、今、皮革工場はお母さんが経営している。この工程を頼めないかきいてほしいといったとき、「うちの親は今回も非協力的ですから」といいながらも、頼んだらしい。その日のうちにお母さんが学校まできてくださり、さっそく二中の前にある工場を紹介してくださったのだ。家でやっている牛のタンニンなめしによる革まで届けてくださった。「非協力的」などでは、まったくなかった。
 当時、反対されていたお父さんにお話をうかがいにいったとき、お父さんが、「皮革産業への偏見は確かにあります。そして、その偏見をなくす取り組みは、二中にはやってほしいことです」「わかりました。そういう話しあいに出るなと息子にいったのは撤回します」といってくださったことを、改めて思い出していた。
 中間試験が終わった日に、この工程を引きうけてくれた工場に、見学にいくことになった。クロムなめしが終わったところで、自分たちの手から離れた皮が、どのような工程をへて手元に戻されるか、それを知り、翌日からの作業に入るためである。
 事前学習もろくにしないまま連れていったことを反省するしかなかったが、工場の方は、丁寧に説明を加えてくださった。触らせてくれたり、きれいな加工革を見本用にくれたりと、子どもたちの取り組みを応援してくれているのが、よく伝わってくるひとときであった。
 生徒が何を考えて参加してきたかは、いろいろであった。内心に大きな期待をいだいて参加したであろうものもいれば、授業中抜け出せるのがうれしくて参加したものもいた。昨年のつづきだからと迷わず選んだものもいれば、友だちがいるからという理由で参加したものもいた。が、実際に皮なめしに取り組むなかで、思っていた以上のたいへんさ、実際に染めあがった革をみたときの感動を味わえた。皮革工場の見学のなかで、働く人の思いにふれたことも、この取り組みの持つ意味をより深くとらえることにつながった。
 見学者へのアピールに何を書くか話しあったところ、「入学した当時はくさいにおいといっていたけど」「学校に皮工場のにおいがくると、それをみんなが『くさい』などというので、みなさんが使っている靴やカバンなどをつくるための革をつくっているということをわかってもらうために行いました」と、今回初めて参加した生徒からも、取り組みの意義がうけとめられていることが伝えられた。
 うまくなめせ、染色もいい色が出て、きれいなスウェードができた。
 仕上がったスウェードを中心に、作業の内容や様子、薬品とその解説。直前にもう一度工場を訪ねて、調べたりきいたりした内容。もらった革の見本。作業の様子などを写した写真。それらを展示した「皮から革へ パートⅡ」はみんなの思いのこもった、満足のできるものになった。この文化祭では、皮なめしを始めるときに、全職員にそのことを伝え、同和教育の一環として位置づけて、当日の見学の指導をし、感想を書かせてほしいと伝えた。
 文化祭の見学が終了したところで、各学級の感想を書いてもらった。学年によるうけとめの違いは、取り組みの違いを示していた。
 感想文のなかで、A子は「初めてやってよかったと思いました。やりたくない・やらなければよかったと思ったことも、何度もありました。でも、そこでもしやめていたら、今日のこの喜びはなかったでしょう」と述べていた。ここまでくることで、ようやく、「建て前」や「アリバイづくり」ではない、本当の取り組みになったのだと思う。もし、途中でやめていたら、「やりたくない・やらなければよかったと思った」ところで終わらせていたらと思うと、ゾッとする。


まとめにかえて
 文化祭が終わって、私のクラスでは、何かが変わった。半数以上が共に皮なめしに取り組むなかで、「取り組むっていうことが、これほど楽しいものとは思わなかった」体験をして、本当の仲間を求める勇気を出し始めたのだと思う。
 A子は、皮なめしが始まったころから班ノートに、妹が亡くなったさびしさや、妹の死をめぐっての家族の葛藤を書き始めていた。C夫も班ノートに、自分の家庭のことを、昔のように「一人ぼっちのオレにもどるより、親父があばれる方がましだ」と書き始めた。B夫は「ぼくたちの1年のときの夢」を実現したい、そのために仲間のこじれている人間関係を「本気で解決し、部落問題について話し合いたい」という思いを出してきた。
 この取り組みで、励まされたのは木下川の子どもたちだけではなかった。別れた父から学費を出さないと連絡をうけて、けんかをした話。2年生のころ表面的にはツッパリ、仲間と悪さをしながら誰も信じられず一人で泣いたときもあったという話。そんな「本当の気持ち」が出せ、励まされる思いで暮らせる学級がつくられたから、進路決定の時期を、よく励ましあい乗り越えることができたと思う。
 差別事件がおき、地域の人たちの話をきき、木下川小の先生の話をきいたなかで、繰り返し語られていたのは、「地域に入ってほしい」「地域の思いを知ってほしい」「仕事について知ってほしい」ということであった。それを、頭でではなく具体的に理解することになった3年間であったと思う。
 少しずつでも、積み重ねとなる実践ができたのは、親や地域の人たちの話をきくことをしながら、子どもたちと話をしてきたからだと思う。取り組みについて、方向や内容がわからなくなったり、迷ったりしたとき、親に会いにいっていたのだと思う。あるいは、その必要が自覚できていないときには、親から「先生最近こないね。おいでよ」と、声をかけてもらっていた。
 後輩にも同様の取り組みをいいおいて卒業していった彼ら。彼らの一員であり、西暦記載の卒業証明をと闘った在日朝鮮人生徒と、彼に連帯して「君が代」を着席した仲間。在学中に部落問題学習に取り組めなかった私。
 卒業後、校内に展示された「革」をみせるのだと、新しい友だちを連れて訪ねてきたA子。彼女の「何回見ても、感動する」という言葉に、私は励まされる。
 彼ら彼女らが、今生きているところで、新しい仲間づくりに取り組めるよう、今までの仲間が、互いを励ましあう関係としてつづくよう、これからもかかわりつづけたいと思う。