地域を学ぶ
東京都墨田区木下川小学校(当時)岩田明夫
はじめに
木下川小に教師として着任し、11年になろうとしている。強制人事異動の攻撃があり、木下川小では最古参になった。この間、私は“木下川の教師”へと変えさせてくれた子どもや親たちとの出会いがあった。また同時にこれまで知りえた部落や地域の歴史が豊富になるにしたがい、その知識だけで子どもと向きあってしまう=教えこもうとしてしまう自分もみえかくれする。私もいつ強制移動させられるかと、毎年心を痛めるが、今まで到達した課題を整理し、子どもたちと向きあっていきたいという思いでこの2年間の実践を積みかさねてきた。
木下川小の児童数、120名。周りの学校とくらべると圧倒的に少ない人数である。小学校高学年、中学へと進むにしたがい、木下川の悪口をきき、ほとんどの子が“皮屋なんてやるもんかい”“木下川を早く出たい”という気持ちに変質させられていってしまう。卒業生たちは、それでもよく集まり友人の心配をするのであるが、一人ひとりをみるとやはり弱い面がみられる。ある子は、やっと都立高校に入学し、友人ができたと喜んで報告にきたが順々に友だちの家に遊びにいって、さあ今度は自分の家につれてくる番になって困ってしまっていた。小学校高学年の子どもでも、この木下川から出ていきたいという意識がある。木下川小を卒業し私立の中学へいくんだという。その理由がやはり、まわりから木下川の悪口をいわれるからだというのだ。私たち教師は、この子どもたちの「ささやき」がきこえる場にいなくてはならない。差別の現実が子どもの奥底へ入りこんでしまっているからこそ、私たちの実践はその「ささやき」にとどくものをぶつけていかなくてはならないと思う。今、私たちに課せられているのは、子どもたちにしっかりと地域をみる目を養わせること。そして、親の仕事や姿をつぶさに見つづけさせること。それらを通して、“木下川に根をおろした”人間を育てていくことといえる。この課題を背負って私は、小学3、4年生に地域の学習をなげかけていった。
地域学習
皮革なめし工場見学
私の学級の児童数は、18名。そのうち親が皮工場に勤めている児童は5名。皮工場見学へ、みな心おどらせ期待して出かけた。
かわ工場見学
小3 I子
私は、さいしょに見たぶたのかわを、しおずけにしていたので「どうしてぶたのかわをしおづけにしているのかなぁ。」と思った。それで、おじさんがおしえてくれたのでわかりました。おじさんは、「ぶたのかわが、くさらないようにやっているんだよ」と、おしえてくれたのでそれでわかりました。いろいろきかいがあってタイコでぶたの毛や色をつけているのがわかりました。そして、2かいでは、おばさんたちがかわをナイフでいらないところをきっていました。そしてとなりには、大きなアイロンがあって…(中略)…わたしもこれからは、かわやさんのことをいっぱい知って、お母さんも、かわやではたらいているから、お母さんにも教えたり、教えてもらったりして、知っていきたいです。雨がふったら、かわかすのに大へんでしょう。それもみんなにやくだつようにやっていきたいです。かわやでも、おもしろいことや、やなことがあるでしょう。でもわたしもしょうらいは、かわやになろうと思いました。でもそうはかんたんにはいかないでしょう。でもぜったいやりたいです。
I子の家は六畳一間に台所、親子4人で暮らし父親、母親は皮なめし工場に働きに出ている。だからこそ、“かわやでおもしろいこと、やなこと”もきいているのであろう。3年生であればこそ、こんなに素直に皮屋の仕事をみていくのである。だが卒業生を見まわすとどうであろう。みな一様に家の仕事“かわや”を毛嫌いし、木下川からのがれようとしている。一体子どもたちは、育っていくあいだに何をみ、何を体験し、変えられていくのだろうか。この子どもたちに同じ途を歩ませたくないがため、この学習のなかで地域の実態や歴史、先輩たちの生活や思いを学び深めていきたいと思った。
地域見学
地域めぐりをし、絵地図を描かせた。それをみながら木下川の特徴をつかんでいった。
木下川のとくちょう
工場が多い
かわやさん 95けん
油やさん 35けん
プレス その他 70けん
ないもの
病院、しょうぼうしょ、こうばん、ゆうびんきょく、おふろや
電話ボックス、スーパーマーケット、ぎんこう、とこや、ようふく屋……
ないお店を出していったらきりがない。あるものを出した方が早い。なにしろ駄菓子屋3軒、酒屋1軒、ガソリンスタンド1軒、そのほかはみんな工場だけである。子どもたちからはつぎのような疑問が出てくる。
(ア) どうして木下川にかわやさんが多いんだろう。
(イ) どうしてお店やさんが少ないんだろう。
(ウ) むかしからお店やさんがなかったんだろうか。
(ア)については、昔、皮なめし業を浅草で営業していたのが“くさい”という理由でこの木下川に強制移転させられた歴史をひもといて話をした。
(イ)についてはいろいろな意見が出た。「すんでいる人が少ないからじゃないか」とか「工場が多すぎてできないんじゃないのか」とか「病院や幼稚園がないのはこまるよな」とか、いろいろ出た。この地域の学習で、周りの地域と様子が違うこと。お店が少ないこと。生活に欠かせない公共施設がないことを学習した。
中学生の作文
中学生の作文を子どもたちに読みきかせた。この作文は、卒業生がクラス会をひらき、木下川の悪口をいわれたこと、そのときの気持ちを話しあったことを、卒業生の何人かが書いてきたものである。こういったことを、多かれ少なかれ体験しながら、木下川の子どもたちは、大きくなっていく。そして心の奥にしまいこみ、その意味を問うことなしにかくしつづける。このことは親を切り、地域をすて、差別に負けた姿として育つことにつながるであろう。長いあいだつづいたこの地域の問題に今一歩、真正面から考えていける人間をと願ってこの中学生の作文を子どもたちの前に出した。
木下川の町 I男
木下川は、皮工場が多く、ネット張りやスプレー染色とか、つや出しとか、いろいろな仕事をしている工場があります。この木下川では、日本中の百パーセントのかわのうち九十五パーセントのかわが、この木下川でなめされます。なめしてあげた牛やぶたのかわは、あさくさでランドセルやくつをつくります。もし木下川がなくなったら、かわはないと思ってください。
木下川の町 Y子
わたしのすんでいる木下川の町は、かわやいろいろなにおいで、すぐハンカチで口とはなをかくす人がおおいです。でもそのかわのにおいがいやだというのはおかしいとおもいます。だってじぶんたちがはいているかわぐつだってだいたいこの木下川でつくっているものじゃない。だい五やいろいろな学校のせいとたちがしょっているランドセルだってこの木下川がだいたいつくっているじゃないですか……(略)
木下川の町 K男
木下川は、皮と川でかこまれています。木下川はくさい、すけべと言われていたけど、木下川は、皮屋やゆし(油脂)の多いところだから言われると思った。木下川の町は、いいところだ。はたらいている人がいっしょうけんめいにやっていて、それをバカにしておもしろいと思うんですか、自分たちがいわれたらおこるでしょう。木下川の子どもたちは、がまんしているんですよ。木下川の子どもは、がまんづよいんだ。いまのところは口に出してしまうけど、これからがまんづよくなる ……(略)
クラス全員、中学生の作文をききながら、怒りをぶつける感想文を書いた。また、中学生と同じような体験を書いてくる子どももいた。「人数が少ない」「せこい学校」「身体障害者がいる学校」「くさい」「木下川小学校だって(ニヤニヤ)」「バカ学校」とたくさん出てきた。子どもたちは、習字、そろばんの塾や遊び場でこんなことをいわれていることがよくわかった。
越境問題
こんどは、同じ差別事象でも木下川に住んでいる親たちの考えを出しあう意味で越境問題を取りあげた。この越境は、十年前までは公然と行われていて、当時はなんと20%以上の児童が越境していた。その後、解放同盟がこの越境問題を指摘したことをうけて行政指導がきびしくなり、公然とは越境できなくなったが、現在でもかなりの数にのぼる。子どもたちに越境させる親の気持ちを考えさせてみた。大きく三つのことが出された。
(1) 木下川は人数が少ない。
(2) 木下川は勉強が遅れている。
(3) 「くさい」といわれ、子どもがかわいそう。
この話しあいはだいぶ興奮気味に行われた。子どもたちは怒っているのである。人数が少なくてどこが悪い。人数が少なくてこまることがあるが、いいこともあるぞ。木下川は勉強が遅いかなとかいろいろ出されたが、越境させる親たちの本当の気持ちはどれなんだろうと問うと、みな一様に子どもがバカにされるんでかわいそうだと思うとこたえていた。子どもたちは差別の実態を正確につかみはじめてきた。
親は、表面的には越境とか私立とかいうかたちで差別に負けた姿をみせている。だが、木下川で仕事をし、生活してきた奥底の太さと誇りに子どもたちを出会わせていきたい。
地域改善の動き
差別の現実は昔からあり、自分たちの親もそれぞれくやしい思いを背負ってきたのであり、そのなかでもがんばって生きてきた姿に目が届くように四つのことを出していった。
(ア) 木下川小学校の創立
(イ) 木下川生協
(ウ) バス路線開通
(エ) 住宅要求
木下川小学校の歴史をさかのぼる。万福寺での寺子屋、荒川駅下のお風呂場を利用しての学校、ほかの小学校にいっていたころ、そして木下川小学校創立。木下川小学校創立には地域の人々から多くの寄付(教員の給料60円の当時、2500円を寄付した皮屋さんもいた)があり、理科備品では区内一、創立時にとなりの地区との境の小川にかかっている橋に門をたて、花火をあげ喜んだこと。けれども、そんななかで家の仕事が忙しく小学2年までしかいけず、ほかの地区の人と川をはさんでよくけんかしたという古老の話をきかせた。子どもたちに「なぜ、そんなに寄付をした人が多かったんだろう」ときくと「昔もいやなことがあったんだろう」「ばかにされたりしたんだろう」「だからたくさん寄付をしたり喜んだのじゃないか」と、当時の人々のくやしい思いと、学校ができる喜びを読みとってくれる。
木下川生協は、地区内に日常に必要なお店が一軒もないことから、解放運動の成果として数年前につくられたものである。また、バス路線は、地域の人がちょっとしたものを買いにいくにも交通の便がないということで、解放運動が勝ちとったものである。住宅要求は、以前生活困窮者を優先的にほかの地区の都営住宅に入居させるという、との融和政策にのせられてしまった苦い経験のうえにたって、地域内に都営住宅をたてさせる運動へと発展し、今、工事に取りかかっている最中である。ちなみに、そこに入居予定の私のクラスの子どもは2人である(註:この都営住宅は5年越しの運動により1985年に完成し、入居が行なわれた)。
まとめ
右往左往しながら地域の学習を進めてきた。地域の現状、先輩たちの思い、越境問題を通して差別の現状を学習してきた。そんななかでも木下川の人たちは、“あたたかい心”を持ち、“地域をよくしていこう”という願いと運動をつくってきていることにつなげてきた。このことは、地域に根をはれる人間に一歩でも近づく道だと思い、手さぐりで授業をしていった。
今、解放子ども会では、地域の地図づくりを小学生部会で、木下川の歴史を中学生分会で取り組み始めている。このことは大きな力強さを感じる。